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モルドバワインの歴史について

 

 モルドバの地に葡萄の木が存在していたことは、現在のモルドバ北部に位置する村の痕跡により約7,000万年前頃の痕跡から証明されており、葡萄栽培についてはククテニ・トリポリア時代の紀元前3,000年頃までに遡ります。この長い歴史から分かるように、古くから葡萄を育てワインを作る地としての歩みがあり、ワインはモルドバの文化・神話・民間伝承・伝説に深く根ざした、ルーツの1つでもあります。

 近代以降、ベッサラビア(現在のモルドバを含む)のワインは既に広く知られる存在でしたが、2度の世界大戦と革命、ソビエト時代の禁酒令、1991年の独立などの出来事を乗り越え、ワイン産業全体の構築を徐々に整えていきました。2014年には、国家ブランド「Vinul Moldovei. O legendă vie(モルドバワイン・生ける伝説)」を立ち上げています。

 モルドバのワイン作りは、長い歴史に裏付けされた伝統的手法と、その地をよく知る住人のよって、地元のテロワールに適応した葡萄を慎重に情熱を持って育て上げています。

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紀元前5000年~ 古代時代
1. 古代時代

| 紀元前 約5,000年頃 ククテニ〜トリピリア文化の葡萄栽培

 現在のモルドバの土地に葡萄の木が存在していたことは、新生代(第三紀)の初期、約7,000万年前頃の痕跡から証明されています。モルドバ北部、ドンドゥシェニ地区のナスラヴチャ村の近くで"Vitis teutonica A.Br 種"に属する葡萄の葉の痕跡が見つかっています。また、モルドバ北東のフロレスティ地区、ブルスク村の近くでは、約2,300万年前頃より始まる中新世の痕跡から、"V.aestivalis Michx 種"に属する蔓植物と野葡萄が発見されています。野生の葡萄を栽培する文化は、モルドバ共和国の現在の領土を​​含む、ヨーロッパで最も古い文明の1つであるククテニ-トリポリア文化(紀元前6〜4世紀)の間に始まったとされています。この中期〜後期に、小麦、大麦、キビ、オート麦、エンドウ豆、スモモ、プラム、アンズ、葡萄などを栽培していたと推測されており、これらの種子がモルドバの幾つかの集落で発見されています。
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ククテニ〜トリポリア文化地図

 考古学的遺跡では、葡萄の種の痕跡と、モルドバ中央に位置するイアロベニ地区のルセシュティノイ村で見つかった、紀元前4,000年(ククテニ文化の初期)の半ばにさかのぼる陶器の破片に描かれていた葡萄の絵の存在もあります。また、紀元前3,000年の前半 (ククテニ-トリピリア文化の中期)にさかのぼる、フロレシュティ地区で見つかった葡萄の種の痕跡も示しています。この2つの種は葡萄の大きさに対応しており、紀元前4,000年前の野生の葡萄は小さい実でしたが、紀元前3,000年前半で見つかった品種は、大きなに実に変化しています。

| 紀元前 約6世紀頃 ギリシャ植民地時代、黒海北西岸の葡萄栽培

​ 黒海の北岸全体がギリシャの植民地となっていた紀元前8世紀後半から7世紀初頭頃、ギリシャ人たちは地元住民が必要とする商品を移動しながら販売していましたが、その後は独自の生産とマーケティングを開始しました。これら商人とその周辺の人々の間には永続的なビジネスが確立されました。ギリシャ人は豪華な陶器、さまざまな金や銀の装飾品、高品質のワインやオイルを市場に持ち込みました。
 ギリシャ植民地化の初期、地元の人々はすでに葡萄を栽培していましたが、品種の数は限られていました。地元の栽培条件に適応していたこの品種やワイン生産技術は、当時のギリシャワインの品質には達していませんでした。そのためギリシャワインに需要が集まり、貿易の構成要素の1つとなっていました。

 この地にギリシャ人が移住し始めると、新たな葡萄品種が導入され、結果として地元の栽培条件に適応しながら、地元品種との交配で新しい品種も生まれました。また、新しい栽培方法も導入しました。葡萄の密植と短い剪定により、葡萄の実への負荷が小さくなりました。葡萄の木が描かれている紀元前3世紀と2世紀の硬貨を見ると、この地域における葡萄栽培の発展を伺えます。

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| 紀元2世紀ー3世紀頃 ギリシャーダキア人時代の葡萄の木

 かつてスキタイ人の生活習慣を伝えた最初の古代歴史家の一人で、古代ティラに住んでいたギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前484年から425年)の書物によると、ギリシャーダキア人の前にこの地に住んでいたスキタイ人たちは多くのワインを持っており、長期に渡り葡萄栽培がこの地の人々の職業でした。
4世紀~ 中世時代
2. 中世時代

| 4 -14世紀 修道院におけるキリスト教の普及と醸造文化

 中世時代、地元住民の間でキリスト教が広まるにつれてワインが儀式で用いられる対象となり、礼拝での聖体拝領に使用されるようになります。この状況によって教会や修道院は高品質の赤ワインを生産・調達することを余儀なくされました。この中世の時代に、葡萄栽培に適した土壌がある場所で初めての葡萄園が出来ました。その近くには、葡萄を加工してワインを製造する、いわばワイナリーのような施設も作られました。

| 14 -15世紀 シュテファン3世時代の宮廷の葡萄栽培

 12世紀の終わり頃、ワラキアとモルドバという新しい公国が古いダキアの遺跡の上に形成されました。既にこの地の葡萄栽培は国の経済において重要な位置を占めていましたが、14世紀までには更に大きな発展を遂げました。この時代のモルドバの支配者が残した資料によると、大きな果樹園と葡萄園、葡萄生産、プルーンとワイン生産の収集や、ロシアとポーランドの各都市へのワインの輸出について記されています。また、重要な交易がドナウ川、プルート川、ドニエストル川、黒海を通して活発に行われ、地理的な要素もワイン造りの発展に貢献していました。

 14世紀半ば、自然条件と高度な伝統の根付いた、葡萄作りに最も好ましい地域が徐々に選定されるようになっていた頃、モルドバの支配者と貴族たちは高品質のワインを独占しており、特に貴族たちは地元で生産された高品質のワインを多く持っていました。それらのワインを保存するために木材の樽を作ったり、地下に貴族用のワインセラーを作るなどし、翌年ワインづくりを行う時期まで保存する施設も存在していました。

 15世紀のモルドバは、豊富な低価格の農産物の産地として有名な地でした。この時代、モルドバ内の萄園の面積は大きく拡張しました。1499年には、プトナ修道院だけでも13.6ヘクタールの葡萄園を所有していました。

 また、シュテファン大王の治世中、ハンガリーの品種であるハース・レヴェリューとフルミントが持ち込まれました。特にフルミントは、長期間の栽培を経てモルドバでの栽培条件に徐々に同化し「グラッサ・デ・コトナリ」という名称で呼ばれていました。この品種でつくられたワインの大きな特徴は、17~20年間保存され、かつ毎年美味しい状態であることでした。当時、このコトナリの葡萄園とワインは非常に有名になりました。この葡萄園の設立はシュテファン大王の治世の時代のものとされていますが、研究者によると葡萄栽培はギリシャ・ダキア時代から行われていたとされています。 15世紀はモルドバの他のワイン生産地域も有名になり、アレクサンドル・レプシュニャーノの統治時には、ヤシ地域の葡萄園が発展しました。またこの期間(14世紀半ばから16世紀半ば)には、地場品種の数が多く揃い、品種ごとのゾーニングを行い始めました。

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| ロシアとポーランドへのワイン輸出国に成長

 14世紀以来、モルドバの経済は大きく成長しました。農業がその基盤であり、葡萄栽培は農業においてとても重要でした。また、ポーランドとドイツからビザンチウムへ、ハンガリーとトランシルバニアからロシア公国へ、ワラキアからポーランドへなど、この地理的な位置により、多くの交易路がモルドバ公国を通過しました。モルドバ公国で最も人気のある輸出品の1つはワインでした。

 

 モルドバ公国を脅かしたオスマントルコに対し、ロシア国家との同盟を強化するため、当時の統治者であるステファンセルマーレ(1457-1504)の娘であるエレナ・シュテファノヴァヴォロシャンカは、1483年に、かの有名なロシア皇帝のイヴァン3世ヴァシリエヴィッチの長男と結婚しました。このおかげで、ワインの供給を含め、ロシア国家との貿易および文化的関係が活発に発展しました。

 1596年、モルドバはロシアとポーランドの市場でワインの主要な供給者でした。しかし、オスマン帝国による300年間の占領が始まると、ブカレストの平和条約が調印された1812年までワイン醸造が禁止されたため、モルドバの葡萄栽培は衰退しました。

| 18世紀 ディミトリ・カンテミールの役割と貢献-ワインの最初の分類

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 ディミトリ・カンテミールの書物「モルドバの平野と森について」の「モルドバの説明」の章の中で、カンテミールは葡萄園がモルドバの土地の最大の富の1つであると述べています。同時に、モルドバで生産されたワインの分類を行なっています。「特にコトナリワインは、他のヨーロッパのワインやトカイワインよりも優れている」という記述があります。これらのワインは国内での需要だけではなく、近隣の国々でも注目されていました、ロシアの商人、コサック、トランシルバニア人、ハンガリー人を魅了しています。この当時、トルコの占領下にあったベッサラビアの優れた葡萄園は荒廃していました。ただし、当時のモルドバ南部に位置していたイズマイールでは、地元で消費するためのワインが生産されていました。

19世紀~ 近現代
3. 近現代

 ベッサラビアにおける入植者の人口の始まりは、1812年以降、特に南部で起こります。移住者の各家族に65ヘクタールの土地を与え、一部の税金を免除するなどの好条件によって、ドイツ人、ブルガリア人、ガガウズ人、ギリシャ人、アルメニア人、フランス人が集まるようになりました。 1861年までに、入植者はベッサラビアの全居住地域に広がり、11.8%を所有していました。特にスイス人の定住者によって作られたシャアボ村が有名でした。初めは120家族を対象としていましたが、短期間で900家族に拡大され、近隣の農民家族と一緒に2,700ヘクタールの土地を所有していました。入植者は、スイスから葡萄を潰す金属プレスを持ち込み、ワイン、井戸、新しい家のための地下室を建設しました。この地域では、葡萄栽培と醸造を実践するための合理的な手順を開発し、入植者だった葡萄栽培者のカール・タルダンによって発展しました。

| 入植者による葡萄栽培と醸造の発展と貢献

 カール・タルダンが得た結果は、ロシアのさまざまな農産物品評会でメダルを獲得し、実り多いものでした。

実際、彼の著書「葡萄栽培と説明図による醸造」は、葡萄栽培の実践的な知識を含む小さな百科事典でした。カール・タルダンの貢献により、この地域で葡萄品種の最初の基礎が確立されました。これは、地域の状況に最も適応した品種の研究と、導入の基礎です。彼の葡萄栽培と醸造の実践の活動は、再び経済的な可能性を示しました。

| ベッサラビアワイン大学

 ベッサラビアワイン大学は、おそらくベッサラビアで唯一の葡萄栽培と醸造を学ぶことの出来る場所でした。元々、1842年に果物栽培の学校として組織されていましたが、1891年にベッサラビアの果物栽培大学に基づいて、中堅の醸造大学を設立することになりました。再編成された大学は、その目的として、葡萄栽培と醸造において、理論的および実践的な観点から、知識と経験豊富な専門家になるための厳しい訓練が行われました。

 大学内には実験的なワイン施設が作られました。この施設では、大学で働いていた教師が研究を行ったり、教育活動や訓練、科学的実践が行われ、より高度な資格を持つ専門家の養成が可能になりました。

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 1911年、ベッサラビアワイン大学は、5年制の大学として、再びミディアムランクの葡萄栽培とワイン醸造を学ぶのカレッジに編成されました。この時点で、大学には30区画の土地がありました。この区画の中には、葡萄園、果樹園、公園、生活や勉強が出来る施設などがありました。さらに大学には、数万本のコレクションを備えたワインセラー、葡萄園を備えた実験室、化学実験室、酵母実験室を含む科学的な研究室、図書館がありました。

この間、大学はベッサラビア地域だけでなく、ロシアや他の地域等でも葡萄栽培や醸造に仕える、数百人もの専門家を育成しました。

 実験室を持つこの大学は、ベッサラビアの葡萄栽培とワイン製造において、科学的な研究ができる唯一の施設であり中心地でした。ベッサラビアでの非常に品質の高いテーブルワインを作ることに成功しました。アリゴテ、リースリング、トラミネール、マスカット、カベルネ・ソーヴィニョン、メルローとサペラヴィ(ラフィットタイプ)とカベルネのブレンド、などのワインは、広く知られるようになりました。大学で作られたワインの多くは、国内および国際的な展示会で数え切れないほどの高い評価を得ています。この貴重なコレクションは年々その実績を重ねて行き、ベッサラビアの葡萄栽培と醸造の分野における科学的・創造的な研究の開花期となりました。

| フィロキセラの時代の葡萄

 ベッサラビアがロシアに併合された後、市場は大幅に拡大しました。1900年までに葡萄園の占有面積は約6倍に増加し、ワインの生産量は約15倍になり、その約70%が市場で販売されました。1900年はベッサラビアで葡萄栽培とワイン醸造の開発が最も進んだ年とされています。

 最初のカビの病気であるうどんこ病(うどんこ病)は、1855年にベッサラビアのドニエストル川とプルート川の低地の葡萄園で検出されました。より壊滅的なのは、1884年にレオバ町で、1886年〜87年にオルゲイ郡で出現し、1888年に領土全体に広がった別のカビの病原体でした。両方の病気、特に後者の病気は非常に壊滅的でしたが、しばらくしてから、それらに対して効果的な治療の方法が見つかりました。

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 北米の葡萄の挿し木とともにヨーロッパに輸入されたフィロキセラは、ドイツのエアフルトからの葡萄の挿し木とともに運ばれ、1886年に最初にベッサラビアで発見されました。フィロキセラの影響は非常に特殊な性格を持っていました。時間をかけてダメージを与えるため、はるかに壊滅的でした。植物の成長が遅れることで生産性が低下し、葡萄の株は死に至りました。1910年までにベッサラビアの葡萄園の面積がほぼ2分の1に減少したという事実から、フィロキセラと隠花植物の病気の影響がどれほど強かったかが伺えます。危機を克服するために、2つの方法ー接ぎ木栽培への移行と、交配によって作られた雑種を直接生産する方法が行われました。これらの道のりを経てベッサラビアの葡萄栽培は回復し、さらなる発展へと進みました。


 

20世紀~ 前ソビエト時代
4. 前ソビエト時代

| 前ソビエト時代の葡萄

モルドバワインの歴史
モルドバワインの歴史
モルドバワインの歴史

1900年 9.8万ヘクタール (220万へクトリットル)のうちの70%を輸出

1918年 ルーマニア王国への加盟

1920年頃~ ワイン輸出の減少、ロシア、ポーランドの市場での損失

1930年~1939年 在来種と比較した品種構造開発

1940年 ベッサラビアがソ連と併合

1945年 集団化、工業化、コルホーズとソフホーズ

1950年 葡萄の大量栽培

 20世紀初頭に起こった政治的・社会的変革は、ベッサラビアの葡萄栽培と醸造に大きな影響を与えました。フィロキセラと隠花植物の病気の影響があったのち、葡萄栽培は順調に回復していましたが、第一次世界大戦、ロシア革命、モルドバ民主共和国の形成、ルーマニアとの再統一による社会や経済の変化などの影響を受けたことで、完全な回復はできませんでした。1918年までに通常500万〜600万の生産量だったベッサラビアのワインは350万まで減少し、ワインの熟成を行うことができなくなり、市場も徐々に減少し、開発のための援助も無くなってしまいました。新しい葡萄園の設立と維持には高い費用がかかり、ワイン業界の開発は大きく妨げられました。

 この状況の結果、交配によって出来た雑種の面積が大幅に増加し、葡萄園の総面積の約93%となりました。1940年代初頭、この状況を改善するため、再びベッサラビアのワイン競争力を高めるための様々な措置が行われました。交配によって作られた雑種を伐採し、ヨーロッパ品種の植林が進められましたが、再び起こった第二次世界大戦の影響によって大幅に減少し、完全には達成できませんでした。

| ソ連時代 - 葡萄の大量栽培と、収穫量と面積の増加

 1945年に実施された国勢調査によると、葡萄園の面積は約98,500ヘクタールあり、そのうち約15%が樹齢20年以上の株でした。総面積の約7%がヨーロッパ品種、(アリゴテ、シャスラ、ガメイ・ノワール、マスカット・ブラン、サンソー、カベルネ・ソーヴィニョン、リースリング、ピノ・グリージョなどがありました)また古くから栽培されている土着品種のララ・ニャグラもありました。

 ワイン生産の改善と発展の対策によって、1953年までに葡萄園の面積は10万6千ヘクタールに増加し、その内の83%は既に確立していたコルホーズ(ソ連の集団農場)に集中していました。品種に関してHDPのシェアは約91%と依然として高い状況でしたが、1958年以降に改善し始め、交配品種を栽培する葡萄園は90年代の終わりまでに実質的に無くなりました。1945年、1952年、1958年、1964年の4度に渡り栽培産業に推奨される品種を増やし、品種ごとに栽培地域が分けられました。白ワイン用の葡萄にはアリゴテ、フェテアスカ、リースリング、ルカツィテリ、トラミネールなど、赤ワイン用の葡萄はカベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、マルベック、サペラヴィ、セレクシア、ガメイ・フローなどの品種を増やす方向となりました。

 葡萄園の面積の増加によって、キシナウ、ティラスポリ、バルチに位置する葡萄収穫後の一次処理を行うワイン製造施設も増加し、またワイン栽培に特化したソフホーズ(国営農場)「シアリック」「トゥリフェシュティ」「チューマイ」「グラティエシュティ」「プルカリ」「シェシェニ」「ロマネシュティ」も発展しました。

 1967年までに、ワインの生産量は1945年と比較して22倍に増加し、スパークリングワインは170万本、葡萄蒸留酒(ディヴィン / ブランデー)は36万3千本が生産されました。1980年代初頭、モルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)は、葡萄園の面積と葡萄の収穫量、ワインの生産量において、スペイン、イタリア、フランス、ポルトガル、ルーマニアに次ぐ世界第6位となりました。

| 1985年 禁酒令の始まり

 1985年5月7日、ソビエト連邦共産党中央委員会で「酩酊とアルコール依存症、種類密造を根絶するための対策について」の法令が採決され、同年5月16日に発令されました。アルコール飲料の生産だけでなく、アルコール飲料を飲む場所や時間も大幅に削減することとなり、アルコールを乱用する人々を厳しく罰することが計画されました。この大規模な禁酒令の特徴は、葡萄園を大規模に破壊することによって、アルコール飲料の生産を最小限に抑えるところにありました。この法令によって、1985年から1987年にかけて、葡萄園の30%が焼き払われました。これは第二次世界大戦によって失った面積よりも多く、ジョージア地域、ロシア南部、モルドバの葡萄園が最も苦しい状況に陥りました。結果的にソビエト国家は、食品産業による収入のほぼ半分(600億ルーブル~360億ルーブル)を毎年失うこととなり、それが政権の経済危機をさらに悪化させました。

1992年~ 独立
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5. 独立

| 1992年 モルドバ共和国のOIVへの加盟

 1990年、モルドバはソビエ連邦から独立し、モルドバ共和国となりました。1992年には大規模な農場の再編成が始まり、農民はコルホーズ(ソ連時代からの集団農場)とソフホーズ(ソ連時代からの国営農場)から退去しなければならなくなりました。この年、モルドバ共和国は、OIV(国際ブドウ・ワイン機構)の加盟国になりました。

| 1994年 葡萄とワインに関する法律の制定

 1994年、モルドバ共和国の議会は葡萄とワインに関する法律を新たに採択しました。この法律はCIS諸国で最初の法律となりました。(モルドバ共和国を含むソ連では、そのような法律はありませんでした)。 それはすべてのヨーロッパのワイン生産国でさえありませんでした。 この法律は、ワインの生産プロセス、および原産地が指定されている他のワイン製品に特別な注意を払っています。

2006年には、葡萄園とワインに関する2006年3月10日の法律第57号が採択されました。

| 2006年-2013年 2度にわたるロシアの禁輸措置

 2006年まで、モルドバ共和国は世界のワイン輸出国のトップ10に入っていました。2006年3月、ロシア連邦はモルドバ共和国からのワインの輸入を禁輸し、その期間は約2年間でした。この影響により、モルドバのワインメーカーは、当時モルドバのアルコール飲料の80%を占めていたロシアのワイン市場に輸出できなくなり、大きな損害を負いました。ワインの生産は2005年と比較して約63%減少し、輸出は41%減少、産業は7%減少しました。国のGDPは、6%以上と予想していましたが、わずか4%しか増加しませんでした。またその結果として、ワイナリーは約1億8500万ドルの損失を負いました。2013年9月にも同様のことが繰り返されましたが、輸出ルートをベラルーシ、カザフスタン、ウクライナ、EU、アジアなどへと多様化していたことにより、2006年に比べたら損害は少なく抑えられました。2006年~2011年の厳しい禁輸措置を経験したことにより、モルドバのワイン生産者たちは、高品質のワインの生産を行い、市場を多様化し、産業の近代化に力を入れていました。

| 2013年-2014年 国家ブランドとONVV(国立葡萄ワイン局)の設立

 ワイン業界の法改正によって民間と公的機関が協力して組織され、ONVV(OFICIUL NATIONAL AL VIEI SI VINULUIー国立葡萄ワイン局)が創設されました。ONVVの主な目的の中には、価格の多様化と、国のワインブランド「Vinul Moldovei. O legendă vie(モルドバワイン・生ける伝説)」を通じたモルドバワインの宣伝があり、高品質のモルドバワインを海外で広く認知するために多くの貢献しています。またONVVは、高品質ワインの国際市場への輸出を促進することを目的とした国家ブランド「モルドバワイン・生ける伝説」の下で、輸出市場でモルドバワインを宣伝し、国内のワイン生産者を統合する責任があります。同時にこのブランドは、厳格な品質管理に従い、ワインの品質を保証する役割も果たしています。

 

 EUモデルに基づいて作られた、保護された地理的表示のシステムーIGP(ルーマニア語表記: Indicații Geografice Protejate)/ PGI(英語表記: Protected Geographical Indications)により、4つのワイン生産地域(Valul lui Traian、Ștefan Vodă、Codru、Divin)を定め、ワインの品質向上において目覚しい進歩を遂げました。結果として、「デカンタ・ワールド・ワイン・アワード」、「ムンドゥス・ヴィーニ」、「コンクール・モンディアル・デュ・ブリュッセル」、「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」など、権威ある国際コンペティションでメダルを獲得しました。

| 2014年 EU市場へ

 2014年6月、自由貿易圏であるDCFTAの創設に基づいて、モルドバとEUの連合協定が調印されました。この協定により、モルドバのワイン製品はEU市場で免税で販売できるようになりました。

| 2016年-2017年 ワイン登録簿 /トレーサビリティ / 2030年までのワイン戦略

 2006年、2013年の2度にわたる禁輸措置の経験と、販売市場の変動、消費者の減少、そして近年の気候変動により、モルドバのワイン産業は2030年までの新たな発展に向けたビジョンが必要となりました。「モルドバワイン2030」戦略の目的は、ワイン産業に影響を与えるためにどのような行動をとるべきか決めることにありましたが、それは新しいワイン産業を発展させるための投資を引き付けることでもあります。この戦略のために、葡萄栽培、安定した開発、ワイン製造、マーケティングとコミュニケーション、教育、開発と研究、Divinとブランデー、法的枠組みなどのさまざまな分野で、国内外の多くの専門家が関わりました。また、多くの財政支援が提供されました。

 

 最も重要なステップの1つは、ワイン産業全体の再構築のための行動計画を定めることでした。この新しい戦略では、農業食品産業省と国立葡萄ワイン局によって、放棄された生産性の低い葡萄園や個別の区画を含む、すべてのワイン区画のデータを集めたワイン登録簿が作成されました。この登録簿での管理は、原材料とボトルワインの品質を向上させ、これらの製品の国内・国外の市場での競争力を高めることを目指しています。

 教育研究とイノベーションもこの戦略の主な焦点であり、教育の枠組み、カリキュラム、ワイン産業の要件への適応の改革が含まれます。地理的表示のあるワイン、バラエティワインなどの高級ワインの生産に向けたオリエンテーション。その周りにモルドバワインの提供が構成されます。環境に配慮しながら、高品質ワインの生産を安定させること、また国内市場を開拓するために、自家製ワインの生産に関する規定を定め、規制を行うことにしました。またDivin(ブランデー)は、国家ブランド「Vinul Moldovei (Wine of Moldova)」の価値を生み出すための非常に重要です。

| 2016年 保護された地理的表示(PGI)と原産地呼称(PDO)の使用

 モルドバ共和国には11万2000ヘクタールの葡萄畑があり、50種類以上のワイン用の葡萄が植えられています。2016年1月28日以降、モルドバ共和国にはワインを生産するための保護された地理表示として、ValulluiTraian、Stefan-Voda、Codruの3つの地域が定められています。国内外の市場でモルドバワインの競争力を高めるために、モルドバ政府はワイン部門を近代化し、特に、保護された地理的表示(PGI)と保護された原産地呼称(PDO)を使用し、高品質のワインを生産するための環境を作り出す目標を掲げました。毎年約60万トンの葡萄(うち10万トンの食用品種を含む)が収穫され、22万~28万トンの品種がワイナリーで加工されています。

| 2020年 記録的なメダルの数

 2020年、モルドバワインは32の国際大会で956のメダルを獲得しました。これは、これまでに獲得した賞の中で最も多い数です。世界的な感染症によって制限と障害が引き起こされたにも関わらず、モルドバのワイナリーは困難を乗り越えながら、多くの著名なワイン国際コンクールで受賞することに成功しました。獲得したメダルのうち624個は、国立葡萄ワイン局(ONVV)の支援により、地元のワイナリーが受賞しました。金メダルは417個、銀メダルは277個、銅メダルが169個でした。国内の65のワイン会社が、ワイン、スパークリングワイン、Divinのサンプルを送り、海外の審査員から優れた評価を得ました。デカンターワールドワインアワード(DWWA)で124つの賞、インターナショナルワインチャレンジで77つの賞、ガリチャヴィティスで73の賞最も多くのメダルを獲得しました。

ONVVの所長、クリスティーナ・フロロフはこう語っています。

 「モルドバワインが国際大会で獲得するメダルの数が毎年絶えず増加していることは、国内のワイナリーとONVVの努力のおかげであり、私たちが正しい方向に進んでいること、また世界中で高く評価されている品質を生み出していることを証明しています。モルドバ共和国はワイン産業の発展に大きな可能性を秘めています。ONVVはこのプロセスを通じて、モルドバワインを国内および国際的に宣伝し続けます。」

 

 国際大会で獲得したメダルは、モルドバ共和国の高品質ワインの価値を認める伝統を引き継ぎ、世界中のワイン製品の中で進化を遂げている国のリストにモルドバ共和国を位置づけています。

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